ありがとう、そして、さようなら


 悲報を聞いたのは、コンボニートスの北海道ツアーの最中、札幌から帯広に向かう列車の中ででした。一面に積もった雪の上にどんよりとした曇り空、いつかは来る、それもそう遠くない日に来るとわかってはいたけど、それがこんな風景の中でとは。たまらない気持ちになりました。
 1940年代から、リリ・マルティネス、ペルチン、フランク・エミリオといった大御所達と共にラテン・ピアノのスタイルを、というよりもラテン音楽そのものを作ってきたといっても過言ではない彼。同年代の盟友は皆他界し、近年存命だったのは彼のみという状態でした。彼の死はルベン一人の死ではありません。生きたラテン・スタンダードの死だといえます。
 88年に初めて彼に会った時のことを思い出します。おおらかで、活発で、人なつっこく、冗談好きで、おしゃべり好きな、典型的なキューバのおじいさんでした。誰からも愛されるその人柄から繰り出される素晴らしいピアノ・プレイ。こんなおじいさんになりたいと、心から憧れたものです。本当にピアノが好きなんだなあと思ったのは、彼の自宅でのホームパーティーの時なのですが、カラオケ・マシーンのごとく次から次へとキューバの名曲を弾きまくり、それに合わせてみんなが唄います。彼は嬉しそうにホスト役を務めながら延々とピアノを弾き続け、ボクも連弾で参加したりして、本当に楽しいひとときでした。64年にトニー・サンチェスと共に初来日した時の話も、当時の写真を見ながら「日本語をひとつ覚えたんだ。とうがらし、いらない。これだけだけどね」と大笑いしながら話してくれて、それ以来この「とうがらし、いらない」がボク達の合言葉になり、彼はよほど気に入ったらしく連発していました。この頃は毎年キューバに行っていたのですが、そのたびにパーティーが行われ、それがキューバに行く最大の楽しみになりました。かけがえのない思い出です。
 91年には長年在籍したエンリケ・ホリン楽団を離れ、いわゆる「現役」を引退したのですが、それがきっかけか、ちょっとづつボケが進んだような。だからブエナビスタで現役復帰した時は、正直ビックリしました。水を得た魚のような生き生きとしたプレイ。ミュージシャンってやっぱりそういうもんなんですよね。  2001年に、ある仕事でキューバを訪れた際、親友のファン・デ・マルコスに「以前から考えていたんだけど、ルベンとピアノ・デュオを録音したいんだ」と話したところ、「やるなら今だぞ、次ぎはないかもしれないんだから」と、今から思えばやけに予感めいたことを言われ、それではと早速スタジオを手配して録音しました。先月リリースした「ミラグロ」に収録されている3曲です。スタジオはハバナ郊外にある "Studio Abdala"。本当は一つのスタジオでピアノを2台並べて録音したかったんですが、ピアノを移動できないとかで、結局第1スタジオと第2スタジオでリンクして録音することになりました。やりとりはビデオ・カメラとモニター。ルベンはやはりそういうのに慣れていないらしく、ボクがカメラに向かって「ボクはここだよー」と言っても最初はわからず戸惑っていましたが、ヘッドフォンでのボクの声とピアノには即座に反応してくれ、「さあ、なにをやろう?」と、のっけから臨戦体勢です。というか、サウンド・チェックの時からバリバリに弾き始め、最初は呆然とそれに聞き入ってました。「ボクが先に弾き始めるから、ルベンはそれに合わせて入ってきてね。曲は "Suena El Piano" だよ」「OK」。こうして始まった録音、背筋がゾクゾクっとするほど興奮しました。そうして "Silver Star"、"Bilongo" と立て続けに録音したのですが、ルベンはまだ引き続けたかったみたいで、「次ぎはなにをやろうか」と、なかなか席を立とうとしません。「充分いいのが録れたよ」と言っても納得してくれなかったのですが、悲しいかな頭が疲れちゃったみたいで、思うように弾けなくなってしまい、そこで終了と相成りました。でもまさかそれがラスト・レコーディングになろうとは。
 北海道から帰った日は、エンリケ・ホリン楽団、アレイート・オールスターズ、ブエナビスタ・ソシアルクラブ、彼のソロアルバムと、一日中ルベンの音楽に浸っていました。もう会えないという悲しみ。この日は「ミラグロ」だけはどうしても聞くことができませんでした。