ー その3 ー


"Orquesta America del 55" カラカスにて
 奥さんがルベンと知り合って結婚したのが55年。彼が "Orquesta America del 55" に在籍していた頃です。
 キューバのバンドは今も昔も結成、分裂、メンバー・チェンジ(何故か解散しないのが特徴ですが)が頻繁で、特に50年代は華やかな時代で、当然ルベンなどの凄腕には良い仕事が来たり、引き抜きの話が来たりと、休む間もないといった状況でした。

 ここでこの頃(50年代)のルベンの動向をざっと見ていきたいと思います。実はこの頃、及びこれ以前の彼の活動は渾沌としていてボク自身もあまりよくわからなかったのですが、今回奥さんとの話でかなり見えてきました。またこの動向は当時の一流ミュージシャン達の動向にも密接に繋がっていてとても興味深いものです。


 まず、54年に "Orquesta America" にちょっとだけ在籍します。このバンドはボーカルでリーダーのニノン・モンデハールが42年に結成したバンドですが、40年代末にエンリケ・ホリンが参加し、次々とヒット曲を作曲して大ブレイクし、チャ・チャ・チャというジャンルもこのバンドで生まれました。54年という年は彼等の絶頂期のころで、メキシコに遠征した年でもあります。この遠征がルベンの参加のきっかけかもしれません。しかし、この遠征中にホリンとモンデハールが決裂。ホリンはキューバに戻って自己のバンドを結成します。この時ルベンも同行し彼のバンドに参加しています。こういうゴタゴタが原因か、まもなくフルートのファニート・ラモスを筆頭にトニー・サンチェス (Violin)、グスターボ・タマージョ (Guiro)、フリオ・サーラス (Conga) といった主だったメンバーも脱退してキューバに戻ってしまい、結局オルケスタ・アメリカは分解してしまいます。ニノン・モンデハールは新メンバーを補充し "Orquesta America de Ninon Mondejar" として活動を続け、脱退したメンバーはキューバで "Orquesta America del 55" を結成しました(ややこしいですね)。ここにルベンは参加することになったのですが、その動機はオルケスタ・ホリンが55年から長期のメキシコ遠征(結果4年にも及んだ)にサインしたからではないかと思われます。なんせルベンは「ひっぱりだこ」だったため、この時はキューバを離れられなかったのでしょう。上の写真はベネスエラのカラカスに行った時のものとのこと。座っているのがルベンとトニー・サンチェス、立っている左からファニート・ラモス、フリオ・サーラス、2人おいてグスターボ・タマージョがいます。30代のルベン。若々しいですね。

 この時期、彼がどれだけ忙しかったかを奥さんに聞きました。驚愕の内容です。

 まず、午後5時〜6時に "Union Radio" で "Orquesta America del 55" の演奏、6時〜8時に CMQ(ラジオ・キューバの放送用楽団、数々の著名なミュージシャンが参加)、8時〜9時に "Radio Cadena Habana" での "Orquesta Pride"(右写真)による演奏、そして10時〜夜中3時までホテル・ナシオナルにある "Cabaret Parisian"(現存する)で自らのバンドによるショーとバイラブレの演奏、という凄まじいスケジュールを、毎日、それも55年から57年まで3年間も続けたそうです。

"Orquesta Pride" 50年代初頭
 58年(57年後期?)から61年まではベネスエラのカラカスへ。4年にも及ぶ長期遠征を自らのバンド "Orquesta Los Solistas" で行っています。このバンドはキューバ人とベネスエラ人の混成バンドなのですが、この時は奥さんと一緒で「蜜月の時代だった」そうです。でもキューバに戻ってからはまた「ひっぱりだこ」になり、Orquesta Riverside、Senen Suarez y su combo、Cabaret San Succi での演奏(下左写真)、Tony Sanchez のバンド(63年か64年に来日、下右写真)等々と、まあも良く働き、64年のオルケスタ・ホリンへの復帰と合い成ります。

Cabaret San Succi のバンド
左から Cheo Junco (vo)、Gustavo Tamayo (guiro)
Tony Sanchez のバンドで来日した時のスナップ
後ろの方はイベンターの方でしょうか


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